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管理人の柿門です。(。・(エ)・。)ノ
今回は、「四宮米蔵(賭碁師)」をご紹介いたします。
藤沢秀行先生のすすめ
以前にご紹介した藤沢秀行先生の「勝負と芸(我が囲碁の道)」に次の一文があります。
本因坊丈和の打碁集を出すとき、丈和を集中的に調べたが、接近戦が強いばかりでなく、全局的な構想力はすごいし、ヨセも巧みだった。
四宮米蔵との二子局が強く印象に残っている。
米蔵は賭け碁打ちともいわれ、在野の棋士。
二子置かせた丈和は、家元の権威を守るためにも負けられない立場にあったのだが、アマチュア特有の力碁を見事封じている。
この丈和、米蔵戦には名局が何局もあり、若い人に並べることをすすめている。
四宮米蔵について
「四宮米蔵」をWikipediaで調べると次のようにありました。
特に師に付くこともなく独学で碁を学び、享保・文政の頃に賭碁師として諸国を巡って三千両以上を稼ぎ、四、五段の力があるとも言われて、その名を知られていた。
1820年(文政3年)に阿波藩主阿波守蜂須賀斉昌の伴として初めて江戸へ出て、本因坊家に赴き手合を求めた。
当主本因坊元丈は当時六段の跡目丈和と二子で対戦させ、米蔵9目負けとなる。
阿波守は後に使者を送り米蔵に三段の認可を求めたが、元丈はこれを断る。
米蔵は再度求めて、同年から1823年(文政6年)までに丈和と更に十番を打ち、通算では4勝6敗1ジゴの成績を残して三段を許された。
当時「二子を置く時は天下に敵なし」と自負していた米蔵は、後にこの時のことを「丈和は実に名人の器乎」と語ったとされる。
この頃の丈和は打ち盛りの時期とされ、米蔵の成績は立派なものと見なされており、丈和が自著の『国技観光』に、この全局を収録しているのもその現れと言える。
関山仙太夫は「米蔵は手の見え、はなはだすぐれたり。一向に法を用いず、我流を打つ強五段の業ある珍物なり」と述べ、藤沢秀行も丈和-米蔵戦には名局が何局もあると評している。
その後1824年(文政7年)四段。この頃、井上安節、伊藤松和に先番、林元美に二子、元丈に三子などの碁も残されている。その後、浪華に住み、太田雄蔵との棋譜も『西征手談』に掲載されている。
丈和、米蔵の十番碁
本因坊丈和と四宮米蔵の十番碁の中に何局も名局があると藤沢秀行先生が仰っています。
十番碁の中に少なくとも3局以上の名局があると捉え、この十番碁を私なりにいろいろと調べました。
丈和、米蔵の十番碁プラス1の成績表は次のとおりです。
米蔵からみて、4勝6敗1ジゴとなっております。最後の11局目は、十番碁から1年近く経っていますので、十番碁本番当時の熱いものは、消えていたかと思われます。
当時、丈和は跡目、六段とのことですが、晩年、次のように語っております。
(私は生涯で、四宮米蔵と対局した文政時代が全盛期であった。勝ち碁は、いうまでもなく、とても勝てそうにない碁でも、たびたび逆転勝ちしたものである。)
とても勝てそうにない碁には、この十番碁第7局の持碁も含まれていると思われます。
藤沢秀行先生は、「米蔵は、現代の九段にいささかも劣らない力」と四宮米蔵を評しています。
今後、当ブログにおいて、丈和、米蔵の十番碁を紹介したく検討しております。
秀行先生が並べろとおっしゃっているのですから並べるしかないでしょ。
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