瀬越憲作先生のコメント
「秀策先生は、強力と読みの深さを奥深く蔵して、碁の複雑性を簡明にしている」
石田芳夫先生のコメント
「秀策先生の布石の骨子は、局面を簡明化し、先着の効を確実に維持させるところにある。これで勝てると見れば無理をせず、一番わかりやすい手を打つ」
李昌鎬(韓国の大棋士)のコメント
「私は一生かけても秀策先生には及ばないだろう」
瀬越憲作先生、石田芳夫先生のコメントにあるように
「碁の複雑性を簡明にしている」
「勝てると見れば無理をせず、一番わかりやすい手を打つ」
これが本因坊秀策の碁ではないかと思われます。
そうであれば、我々アマチュアとって最高のお手本となるのではないでしょうか。
本因坊秀策は「ヒカルの碁」の影響もあり、日本で特に有名な棋士のひとりとなりました。
これより、しばらく、本因坊秀策の碁を並べてみたいと思います。
黒:村瀬秀甫、白:本因坊秀策
黒:村瀬秀甫、白:本因坊秀策
文久元年四月八日、於三客庵、秀甫が定先の黒番です。
文久元年二月十九日を西暦にすると、1861年3月29日だとのことです。
ウィキペディアによると秀策のお誕生日は、文政12年5月5日(1829年6月6日)とありますので、現在の数え方だと31才となります。
秀甫は秀策の9才年少の弟弟子であります。
この頃、秀策と秀甫は、「坊門の竜虎」、「碁界の圭玉(けいぎょく)」と称されていたとのことです。
秀甫が六段昇段の機会に弟弟子を鍛える意味での本因坊秀策との十番碁が実現いたしました。
この十番碁の戦績は、秀甫(定先)の6勝3敗1持碁となっております。
今回ご紹介するのは、秀策、秀甫の十番碁の第1局です。
注)十番碁第一局を安政四年十二月とする説もありますが、秀甫の昇段後とすると時系列が合いませんので、日本囲碁体系15秀策(筑摩書房)の説を支持いたします。
布石の進歩
実戦図:黒7まで
棋譜再生
実戦図:黒7まで
秀策は、文久二年八月十日にコレラで亡くなっております。
その約1年前に、この十番碁が実現いたしました。
秀甫にとって、とても貴重な修行の機会となったといえます。
さて、黒7までの布石は、現代碁とまったく変わりはありません。
旧型の大斜定石
白8、黒11と当時の主流の三間バサミです。
黒9のツメ、白10秀策のコスミと両者落ち着いています。
白12と大斜にかけるのも当時の主流の打ち方です。
黒21は当時の定石で、現代では打たれることはありません。
黒27まで当時の定石ということで、黒が少しポイントを落としました。
白不満の無い布石
白50では、下辺の黒に一撃を入れるのもあったでしょう。
しかし、白56と左下隅をを制し、白60に廻り白に不満があるとは思えません。
白60までのAIの一手(無料のAIソフト)の評価値は、黒が約3目ほどのリードとなっております。
好手、黒69!
黒61は打ちすぎのように見えましたが、黒69のハサミツケが好手でした。
黒77まで黒が好調な攻めを見せており上辺の攻防は、あきらかに黒がポイントをあげました。
白80までのAIの一手の評価値は、黒が約7目のリードとなっておりました
難解な局面
黒87が大きく評価値を下げましたが、私は何故だかよくわかりませんでした。
黒105まで白5子の攻めが好調にみえます。
黒105まで、形勢不明となっております。
秀甫のコウ仕掛け
第1局から激戦です。
黒は真ん中から右上隅を大きくまとめましたが、地合いはよい勝負のようです。
黒129と秀甫はコウを仕掛けました。
敗着か?黒151
コウを解消し、黒149、白150までの評価値は、約3目ほど黒がリードしておりましたが、次の黒151が評価値を落としました。
おそらく、この手が敗着だと思われます。
手順の大切さ
黒151の参考図
黒151の参考図
実戦の153を先に打てば、黒5まで飛び込めます。
白2で4と直ツギするのは味が悪いです。
M18のノゾキからセキにするような手が生じます。
この碁は272手まで打たれ、白番の本因坊秀策の6目勝ちとなっております。
兄弟子の貫録勝ちといったところでしょうか。
内容の濃い熱戦譜だと思います。
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コメントありがとうございます。
大切に読ませていただきます。